けれど、

 

「見ぃーつけたっ」

 

「わぁ」

 

 走るのに疲れて、それでもオペラグラスの接眼レンズから目が離せず息を整えていた僕の視界に、突然と誰かが飛び込んできた。
 オペラグラスの視界は本当に狭い。その狭い視界一杯に、幼い顔が広がれば、せっかく整えた息がまた乱れてしまうくらい驚いてしまう。
 でもやっぱりオペラグラスは僕の両目から離れなくて。僕は、オペラグラスを持ったまま顔を上げた。
 そこに現れたのは彼女だった。


「メイ……」
「んふふ~。遅いよ、ずっと待っていたんだから。……どうしたの?」


 彼女の幼い笑い声が、僕の様子を見た途端に疑問へと変わる。
 当たり前だ。声が耳元で聞こえるくらい近くにいるのに、オペラグラス越しに話す人などいない。
 メイは心配そうに――と言っても、僕の狭い視界では彼女の姿は至近距離以上に大きく見えて表情がよくわからないけど、僕に声をかけた。


「そんなにそのオペラグラスが気に入ったの? まさか、くっついて離れなくなっちゃったとかっ。わぁお。ガリレオの呪い!?」


 素っ頓狂な叫び声を上げる彼女だが、僕は冷静に言う。


「見えないんだ……」
「……? そんなによく見えていそうなのに?」
「いや、そうじゃなくて。見えないんだ……僕の、未来」


 僕の口から出た声は、覗いたオペラグラスのレンズの向こう側へ吸い込まれてしまいそうなくらい小さかった。
 思った以上に、僕は不安だったのかもしれない。


 

 晴れの空が埃っぽい日。ガリレオの幽霊が世界に取憑く。
 その彼の興味が、ガリレオ式のオペラグラスを小さなタイムマシンへ変えてしまう。
 世界中の人たちは、その発明に夢中になっているのに、僕はまだ未来を見ていない。


「僕は、未来が見えないのかな……。僕には、もう、見える未来もないのかな」


 ついさっき出会った、コップのオペラグラスで空を覗き込む老人の姿が頭に浮かべば、だんだんと口が重たくなってくる。
 不安に視界まで暗くなっていくようだった。
 否。オペラグラスのレンズが何かに塞がれた。
 そうだとわかった次の瞬間には、急に視界が明るく開けていた。
 カーテンを引いた部屋にとじこもっていたら、急に窓が開け放たれた時みたいに、眩しい光が僕の目を刺した。
 そして、いつも見ている等身大の彼女が、僕に唇を重ねたのは、目を瞑る間もない一瞬のことだった。
 僕の手を取り、オペラグラスを遠くに離して、彼女は僕にキスをする。
 蝶が花の蜜を吸い終えたように、彼女が僕から離れたのもあっという間だった。


「……。……あの、えっと。何を」


 僕は、口の中に残された砂糖菓子の甘さに動揺したまま、オペラグラスで顔を半分隠す。

 

「人工呼吸です」

 

 彼女は、メイはニッコリ笑って答えたまでだった。
 最近邪魔だと言っていた、肩まで伸びた黒い髪は埃っぽい風にさらわれて、幼い笑みがさらされる。
 気が付けばここは公園で、シロツメクサの小さな野原に、僕と彼女は二人きりで立っていた。
 満足げに笑う等身大の彼女が、そこにいた。


「よかったですね。これであなたの明日は保証されました。あなたは明日を生きられます。んふふっ」
「……どこでそんなこと覚えてくるの」
「絵本でお姫様がそうされてたよ。どう? オペラグラスは。これで何か見えた?」


 呆れて訊くも、ずいっと顔を寄せる彼女に圧倒されながら、僕はうん……と考える。


「近すぎて、何も見えなかった……」
「それでいいんだよ」


 彼女は僕からオペラグラスを取り上げて、レンズを覗き込みながら、うんと頷いたのだった。



 本日は晴天なり。
 世界はガリレオの幽霊に取憑かれました。
 さあ、皆さん。オペラグラスを持って外へ出かけましょう。
 彼が宇宙へ向けた興味が、あなたの未来を創るのです。


 ――望遠鏡じゃ駄目なの?

 ――望遠鏡じゃ、遠くが見えすぎちゃうからだよ。
   最初から遠くまで見る必要なんてないんだよ。どうしても見たいなら、自分から歩み寄ればいいじゃん。
   何が見えるのか、ワクワク胸を躍らせ楽しみながらね。

 ――でも僕は、オペラグラスじゃ近すぎて見えなかったよ。

 ――それは……未来が現在に変わった証拠だよ。

 ――え?

 ――…………ねえ。


「この間、眼鏡……壊しちゃってごめんね?」


 言われて、僕は思い出す。
 ズボンのポケットにしまっていたレンズの割れた眼鏡。
 かけると視界はちょっと歪むけど、いままで視界がぼやけていたことがハッキリとわかる。

 気づかされる。不便だけど、やっぱり便利。
 ああそうか。どうりで見えないはずなんだ。

 オペラグラスだけじゃ、彼女の赤い頬しか見えないんだ。

 end...            

 

 

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