さあ、目を開けて。
上を見て。
海を、見上げて!
◇◆◇
「人はペンを一つ握れば空だって飛べる」
春が終わり夏へと移り変わるこの季節。
ちょうどこの時期の海の生き物たちは青空を求めに海からやって来る。
一年に一度、たった一回きりの風物詩。
今日がその日かもしれないと知った彼女は、僕を連れてその日からずっとこのアトリエにこもっていた。
白くひんやりとした石の床に散らばった画材道具に埋もれながら、ただ上を見上げてひたすらに手を動かしていた彼女の突然の言葉に、僕は思わず鉛筆を握っていた手を止めてしまう。
「突然なに。どうかした?」
何を言い出したのかと思ったら。
見れば、彼女はこちらに背を向けたまま、まだ上を見上げている。
せわしなく動いている手元を見れば、あるのは床に広げられた画用紙。筆がその上を滑り、絵の具がはじけて描くのは抜けるような青空。
手元を見ていないはずなのに、そのまま切り取ったような空がそこにはあった。
「ふふふ」
彼女は、メイは小さく笑うと最近伸びて邪魔になってきた髪を何度も耳にかけた。そうしている間も手は止めない。
彼女の傍らに置かれた小さなラジオから流れてくる音楽のリズムに合わせて、ゆっくり、たまに早く、踊るように筆が紙を優しく撫でていく。
「なんて不思議なことはないわ。当たり前のことだもの。人はね、何でもいい、かくものがあれば何だってできるの」
器用に絵を描き続ける彼女と違い、僕の手はもう鉛筆すら握っていない。 ノートの上に転がって、僕自身もまた床の上に寝転んでただ彼女の話を聞いていた。
こうなった彼女はもう、誰にも止められないのだ。
「ペンは剣よりも強し。日本が誇るいい男、ゆきちもそう言っていたわ」
「……いい男?」
「ママが言っていたもの。お給料日にはパパより愛してるって」
それはひどい。
何となく意味はわかるような気もするけれど、彼女の父親に同情してしまう。
他人事と思いながらも、僕はふと思う。
「メイもそういうのがタイプだったりするわけ?」
「さあ」
恐る恐るといった僕の言葉とは逆に、あっさりとした返事。
「でも、有名な言葉は他にも知ってる。更に彼は言ったわ。人の上に立つためにはまず踏み台となる人物を探しなさいって」
「言ってないと思うよ……」
大体、最初のセリフだって彼女の言っていた事とは意味も違うだろうし。
それでも彼女は構わない。
「とにかく、何だっていいのよ。ペンがあれば人は何だってできるの。それこそ空を飛ぶことだって」
歌うように彼女は言う。
彼女はいつも、こうして夢に溺れているのだ。
そんな夢物語に魅入られた彼女に、僕はいつも意地悪をしたくなってしまう。
「どうしてペンなの。飛行機があるじゃん」
「そんなもの必要ないわ」
「プロペラも?」
「いらないね」
「ツバサは……」
人間にあるわけないか。
「それは、素敵」
言い掛けた僕の言葉に彼女は声で笑う。
こちらを見もせずに。
「人間に突然ツバサが生えたら素敵ね。まあ、鳥にもあるからそこまで珍しくは無いけど。でも、それだってペンや筆が叶えてくれるわ」
彼女はなかなか振り返らない。
「どうして……」
「ん?」
「メイは空を飛びたいんだろう。欲しいのは空を飛びたいっていう事実だろう? 現実だろう。どうしてそんなに夢ばかり見るの」
さすがに、僕のこの言葉には困ったのか、彼女の手がピタリと止まる。筆は空の続きを描くのを止めてしまった。
けれど。
「わかってないなぁ」
なんてことはないというように呟き、彼女はようやく僕のいる方を見た。
「現実じゃないよ、夢でもない。私が欲しいのは『奇跡』だよ」
ようやく振り返った彼女の顔に浮かんだ無邪気な笑顔。
僕の言葉に屈した様子など見あたらない。
「ねえ。なにもそんなに難しく考えなくてもいいのよ。世界は思った以上に単純なんだから。魚が、海と間違えて空を泳いでしまうくらいに」
一年にたった一回きりの風物詩。
それは、海の生き物たちが空を泳いで渡る光景。
それは、少し昔には見られなかった景色。
なぜ魚が空を泳ぐのか、何処へ向かうのか。どうして泳げるようになったのかは、まだ誰にもわからない。けれど、今は魚だって空を飛べるのだ。
「あ、ちょっとそれとってもらえる」
手をヒラヒラとさせて、彼女は僕に言う。見れば、その先には長方形の小さな箱があった。
沢山の画材に埋もれた彼女。絵の具だけでも種類がある。他には色鉛筆やパステルや。
みんな彼女の手が届く範囲にあるのに、その小さな箱だけは少し離れた場所にあった。
その箱に手が届かないのだと、彼女は一生懸命に手を振って僕に訴えかける。
少しは動けばいいのに。
僕からだと簡単に手が届く距離にその箱はあるので、寝そべったまま手を伸ばしそれを引き寄せた。
それは、まだ真新しいクレヨンの箱。
手に取り、ついでに僕はその蓋を開けてみた。
並んだ十二色のクレヨン。中に入っているクレヨンは、まだ新しいままで十分に長さもあるはずなのに、なぜか赤の一色だけが極端に短くなっている。そこだけ目立っていた。
「? 赤だけ無いよ」
「ああ、それね。私にもわからないんだけど、赤だけすぐに無くなっちゃうの」
「赤が好きだから?」
「好きだけど、なぜかクレヨンだけ」
本当に不思議だと彼女は首を傾げる。彼女にも不思議と思うことがあるのか。
僕は体を起こすと彼女に歩み寄り、その箱を渡してあげた。
「ありがと」
短く微笑むと、彼女はそれを床に置いて再び筆を握り、上を見上げて空を描きだした。
彼女が描くのは青空。
僕は、足元にあった画材をうまくよけて彼女の横に寝転がった。一緒に持ってきたノートと鉛筆を抱えて。
上を見る。
「…………」
見上げた先にあるのは空。
このアトリエは温室のような造りになっていて、天井がガラス張りになっているから空がよく見える。けれど、見えた空は灰色に染まっていた。
青空なんて何処にもない。
「ねぇ、曇っているよ」
「そうだね。ルーニーグゥは落ち込んでいるね」
また何か変なこと言い出した。
「……じゃあ、何で青空なんか描いているの」
突っ込むのも疲れるだけなので、僕は普通に話を続ける。
「ふふ。これでいいの、いいのよ。ルーニーグゥはこうでなくっちゃ。それにちゃんと上を見ておかないと、一瞬の奇跡を見逃しちゃうかもしれないでしょう?」
そう言いながら彼女はありもしない青空を描き続ける。
一瞬の奇跡。それはきっと、あの風物詩ことだ。
彼女はそれをずっと楽しみにしていた。彼女だけではない、みんなが。
だけど、その奇跡を捕らえるのはとても難しい。
海の生き物たちは青空を求めている。だからその光景をみる為には必ず晴れてなくてはならない。曇り空でも駄目だ。今の季節は天気が崩れやすいから、その機会は本当に少ない。
だから。今年もやっぱり駄目なんだと思う。
僕はそう思うけど、決して彼女には言わない。
だって、言ったって無駄なのだから。
「ルーニーグゥはぁ~。ほにゃほにゃふーん」
わけのわからない歌。
音楽を流さなくなったラジオの代わりに、その歌がこのアトリエを巡る。
明るいはずなのに、空は暗い。
目を瞑ればどこか遠くで水の匂いがする。
音楽を流さなくなったラジオは、ただ無機質な声を絞り出すだけ。
――発達した雨雲により、今日は雨が降ることでしょう……。
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