春風はじめました


 
 季節の変わり目に、人は気がおかしくなりやすい。

 春はひときわともいえる。
 寒さが消えた季節は本当の一年が始まるスタート地点で、新しい環境への期待を背負って「よーいドン」と皆が走り出す。
 けれど、焦りと不安となれない走り方のせいで、まっすぐ走り続けられる人は少なくて。
 期待と憧れでは追いつけない現実との狭間に生まれたギャップを埋めようと、走りながらスキップとジャンプをするかのごとく、ついには他人の予想の斜め上をいく奇行言動を起こす。

 つまり、季節の変わり目は変な人が現れる。
 いわゆる『ああ、春だからねぇ』の現象だ。

 、、、、、、、、
「春風はじめました。さぁさぁ寄って見てって行きませんかそこのひと。春風はいらんかいね?」

 その『ああ、春だからねぇ』の現象は、私の身近で起こっていた。
 人気のない真昼の通りにポツンと立ったバス停と私。
 呼ばれたのは明らかだったので後ろの小さな公園へと振り返れば、私を呼んだ声がどうしてあんなに近くに聞こえたのか不思議なくらいの距離に、女の子がひとり小さな屋台からちょいちょいと手招きしているのが見えた。

 
 ままごとをするにしては似つかわしくない歳。それでも、いま時の子にしては浮いた着物姿の少女。
 奇妙な声かけの通り、骨組みだけの屋台の屋根にぶら下がった『春風はじめました』の紙が風に宙を舞う下で、ニコニコと私を呼んでいる。
 ああ、怪しい人がいる。
 ああ、春だからねぇ。
 そうたった一言、季節のせいに片付けてしまう日本人の頭こそ『ああ、春だからねぇ』だ。私と同じに。
 興味につられたのか、本当に季節の変わり目のせいなのか。それよりも私は一つの理由だけで、公園にいる女の子のもとへスキップとジャンプをすることに決めた。

 この場から離れるときに一度だけ、バス停を横目で見て確かめて。
 バスはまだ、来ない。

* * *

 着物の女の子は“春風うり”と名乗った。
 まったく名前じゃないが、それよりも気になる『春風はじめました』の紙切れを指で捕まえて、私は訊く。

 

「聞いたこともない。へんな商売をどうしてはじめたの」
「いえいえ、毎年毎年ありますよ。ラーメン屋が『冷やし中華はじめました』って毎年張り紙するのと同じことです」

 

 「ふうん」と簡単に納得させられてしまったのが、なんだか気に食わない気分になって、ちょっと下唇を噛む。

 
「春風は季節の贈り物。でも、春風が贈り物ではありませぬ。春風があなたの贈り物を届けてくれる、いわゆるサービス業といいましょう」

 そんな私が聞いているのかも構わずに、春風うりはひとり、一息に語って手を差し出してきた。

「どぞ? 春風はいらんかいね? 届けたいものはありませんかいね?」

 女の子らしい白い手のひらに映えて、薄紅色の花びらが二枚ある。
 それを見た私の口から、拍子抜けした声が出た。

「それが、春風?」
「はいな」

 春風うりが頷いて、ひょいと、花びらが一枚つままれる。

「この一枚の春風をひと息吸えば、身体の中で嵐が生まれましょう。その勢いで贈り物をどこへでもどこまでも届けてくれる春風です」

 ひょいと、二枚目の花びらがつままれる。

「この一枚の春風は、背中を押してくれましょう。あなた様が臆することのないよう、そっと後押しをする春風です」

 説明すれば、春風うりは二枚の花びらを私の手に握らせた。
 素直に受取った私に、春風うりは『リン』と笑う。その頭のてっぺんにあるお団子から下げられた二つの鈴が揺れた。
 うららかな風がさっきよりも強さを増して吹いている。
 まるで私の手の中から湧き起こるかのように。
 くるくると舞う二枚の薄紅色を見つめて、半信半疑に言った。

「お代なんて、もってないから」
「けれどお代はきちんといただきましょう。――春風を吹かせてください。贈り物をしてくださいな。そしてどうかその春風で……春一番を、吹かせて下さい」

 春風うりが言う。
 季節の変わり目、春がくる。
 けれどまだ始まってはいないから、早くはじめたいからと。
 もどかしそうに願う、それは私と春風うりの別れの言葉になった。
 
* * *

 「お迎えが来ましたよ」という言葉に排気ガス臭い気配を感じて振り返れば、バス停にはバスが着いていた。
 慌てて駆け寄る私を待っていたかのように、開いた扉から猫が一匹おりてくる。首輪に『車掌』と彫られた金のプレートをつけた猫は、咥えていた乗車券を私にくれた。
 猫と同じ真っ白な乗車券。受け取る時に、あの春風の花びらが手のひらから覗いたのに、ふと公園へと振り返れば、春風うりの姿はもう無かった。

 

 

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