セツハにカナデテ


 
 この気持ちはなんと言うのだろう。

 この気持ちは、なんて言うのでしょう。


 ――――この気持ちは、なんて言うのですか?

***

 その人は、それはとても有名な変わり者だったという。
 自称、発明家の奇術師まがい。
 飴のごとく甘い雨を降らすのだと、砂糖を詰めた六尺玉を平気で曇り空に撃ち込むような人が、悠太の祖父だったらしい。
 それを、「硬い飴玉を降らせて誰かに怪我をさせようとしないだけ、他人に思いやりのある人だったよ」と擁護するのが祖母だった。
 
 中学二年の夏休み。悠太が祖母に何の連絡もよこさないで突然と家にやって来たのは、その祖父の奇天烈な研究が目的だった。
 祖父は、悠太が生まれる前に若くして亡くなったので顔も写真でしか知らないが、割とまめな性格だったらしく、研究の成果を逐一まとめたノートを読めば、どれだけ破天荒な人物だったのか祖母の話以上に知れた。
 庭木に水をやるのに楽な方法はないかと、家の雨樋の出口を一箇所に集めて水を貯めタンクをつくり、ホースで撒こうとスポンジで蓋をたところで破裂したその夏は屋根に雑草が豊作だった。などと、しまいには小学生の悪戯みたいなことばかり書かれていて、


「さすがクレイじーちゃん……。こんなの学校に提出したら、宿題やらないより怒られるな……」


 全く使えたものじゃない。と、ノートを床に投げて自分も大の字に寝転んだ。
 そして嘆息する。

 こんな電車も通っていない片田舎に、わざわざバスを乗り継いで祖父の研究目当てにやってきた理由は、面倒な夏休みの宿題の為だというのに。
 自由研究などと、小学生の頃から同じ宿題を出され続ければ流石にネタが尽きてくるから、おかしな実験ばかりしていた祖父の記録を提出すれば良いと考えた自分が浅はかだった。
 早々に祖父の書斎に飛び込んで、本棚や机を探し回って出てきたのはどれもこれも夏休みの自由研究に不釣合いな悪戯記録ばかり。
 他には、空に魚を泳がせるにはどうしたらよいだろう。望遠鏡でどうにか未来が見えないかなど、絵空事まで混ざっていて。
 発明家より作家になったほうがよっぽど良い。

 せめて、遺された祖父の書斎の本棚に詰め込まれた資料から、何か丸写しにできるものが見つからないかと探してみる。


 小さな書斎。入口正面には大きな窓が一つだけと、そこから景色が見えるよう置かれた机が一つ。
 床に散らかしたノートを蹴り飛ばしながら、両壁際の本棚から本を探していると、ふと気がついた。
 それは、十冊ほど並べられた雪の結晶の図鑑で、背表紙に描かれた六角形の模様につられた悠太は一冊手にとってみる。文庫本サイズで、まだ本棚の奥行きが残されたスペースには、小さな木箱が隠されていた。


「なんだ……これ」


 本をどかせば出てきた木箱に悠太は手を伸ばす。
 祖父のものだろうか? けれど何故、こんなところに。まるで他人の目にわざと触れさせないよう隠されたその木箱に興味を持った悠太は床に腰をおろすと、一体何が入っているのか確かめようとした。
 暗いところに押し込められていた割には金具は錆びていなく、彫った模様も薄れていないようで。オルゴールに似た箱の蓋を開ければ、中にあったのは箱の模様と同じ雪の結晶だった。
 けれど本物の雪の結晶よりはるかに大きい。と言っても手のひらに収まるくらいの大きさの雪の結晶が五枚、布が敷かれた箱の中に並んでいた。
 一枚は薄い赤色。一枚は薄い青色。もう一枚は薄い茶金で、もう一枚は水に混ぜたような白。あと一枚は本物そっくり透明の雪の結晶。
 どれも形は違うが、どれも見たことがある雪の結晶のうち、一番左端にあった薄い赤色の結晶を手に取ってみる。

 ひんやりと冷たい――――でもとけない。
 一体何でできているのだろうか。

 触れることのできる雪の結晶の不思議さに、小さないくつもの隙間から光を透かして見ようとしたとき、あまりの薄さに壊さないようそっとつまんでいた指先から、ポロリと結晶が外れ落ちた。


「あっ――――」


 しまった――。と思った時にはもう遅く、胡坐をかいていた膝に一度当たった結晶は、床の上で音を立てて砕けてしまった。


「やっば……い――――!」


 慌てて拾い集めようとした、その時。
 散らばった欠片を吹き飛ばそうというくらい、悪戯に吹いた風が、悠太の前髪を跳ね上げた――。





『――――――あぁ、良かった』




 女の人の声が、近くから降って来た。
 驚いて顔を上げれば、屈んだ悠太の顔を低い姿勢で覗きこもうと微笑む若い女の人と目が合った。


『いきなり落ちてきたから怪我をしているのかと思えば、案外平気そうな顔をしているから大丈夫なんでしょうね。ああ、良かった』


 白い肌に目立つ黒い瞳と赤い唇でほっと笑ったその女の人は、伸ばされた悠太の手をなでるように触れて、芝の上に立ち上がる。
 風が吹き、あの雪の結晶の欠片と同じ淡い赤の花びらが、下から上へと舞い上がった。
 空を隠すほど大きく枝を広げた桜の木の下。
 同じ柄の着物を着たその女の人は、まっすぐに桜の大木を指さして言う。


『けれど、木登りも大概にしないと、化け桜も手足の枝を折られたらかなわないと明日には大穴を残して逃げてしまうかもしれませんよ――……』


 そして。すぅ……。と、霧が晴れるようその女の人の影は、舞い散る桜吹雪の中へと薄れて消えていった。


「…………え」


 悠太は後に残された祖父の書斎の風景を見て、何度も瞬きする。


「何だ、いまの」


 首を振って辺りを見回すが、そこには床に散らかったノートと、本棚と、机と窓が一つだけある祖父の書斎でしかない。
 床に芝も生えていなければ桜の木もない。
 あの女の人もいない。
 ならば、いま自分は、一体何を見た――?
 今しがたの出来事に、悠太は理解が追い付かない。
 風が吹いたと思ったのに、悠太は茹だるような暑さにひどく汗をかいていて、顎から滴り落ちた水滴が手の甲に落ちた。
 見れば、右手は床に落ちて砕けた赤い雪の結晶に触れたままでいる。
 粉々とまではいかないが、一欠片だけ拾い上げると、悠太はまさかと思う。


「これが、割れて。それで、何でか知らない所に変わっていて。それで――女の人が出てきた……?」


 パニックに陥りながら一人身振り手振り、自分自身に言い聞かせる。


「そんな馬鹿な……」


 けれど。
 自問自答は終わらない。
 けれど、結晶が砕けた瞬間現れたあの春の風景は、一体何だったと言うのだろう。
 自分がこの目で見たあの女の人は、どこから現れたのだと誰が説明しよう。


「そんな、まさか」


 けれど。
 悠太は既に、二枚目の結晶を手にしていた。
 何故か不思議とひんやり冷たい、薄い青色の雪の結晶。
 それを手にした右手は、やけに熱かった気がした。あの女の人が触れた手が、自然と胸に触れる。ドキドキ――する。
 緊張感に震える両手でそっと持ち上げた雪の結晶を、息をのんで見つめると、指先に僅かに力を込めた。
 ――冷たい音を立てて、青い雪の結晶が、悠太の手の中で、砕けた。

***

「あなたはいつも絵空事を言い訳にしているのです」

 ツンと怒った表情がそっぽを向いた。
 つばの広い真っ白な帽子が、顔を簡単に隠してしまう。
 髪よりも真っ黒で大きな丸い瞳も、紅を塗らなくても赤い唇も、強い日差しに赤く焼けた頬も、怒りで吊り上がり引き伸ばされても美しいというのに。


「空に魚を泳がす方法なんて、泳げないあなたの願望そのものです。水に浮かない自分を嘆いて、海を自由に泳げても空気に溺れてしまう魚を空に放り投げて苛めてしまいたい衝動でしょう? ああくだらない」


 珍しく着物を脱いで、流行りのワンピースに袖を通したのに、あの入道雲が生まれる海に連れて行ってくれないことを、そのひとは怒っている。


「自慢します。私は泳げます。でも一人じゃ泳ぎませんよ。間違わないでください。泳げないんじゃなく、泳がないんです」


 ちらりと、黒豆のような瞳がこちらを見た。
 白桃のような頬も、ふっくら膨らんで見えた。


「泳げないあなたと一緒にあの海に行っても、私は一人じゃ泳ぎません」


 橋の上に立つと遠くに山が見えた。隣の山と重なったその間には、きらきらと瞬く光が青空に反射している。
 そのひとは、その景色を背にひとり立っていた。なんだかその姿が、少し寂し気に見えて。


「だから、この空を海にしなくてもいいのです。海を見上げるほど高くあげてしまわなくてもいいのです。泳がなくていいのですから。……私は、本物の海が見たいのです――……」


 山の遠く向こう側へ瞬く光に少しずつ映像が砕けて、真っ白な帽子とワンピースを着たその人は、真っ白な入道雲の中へと消えて行った……。

 
***

「間違いない」

 悠太は確信した。
 間違いない。最初の幻影も、さきほどの幻影も全てこの雪の結晶が見せているのだ。
 結晶を砕いた瞬間、まるで再生されるかのように映像と声が現れるのだ。それがどのような理屈になっているのかわからないけれど、だからこそそれは、大発明だった。
 バラバラと砕け散った青い雪の結晶を足元に、悠太はつい立ち上がってしまっていた。ついさっきまで目の前にいたあの女の人と、向かい合うつもりでずっと立ち、じっと手の中を見つめる。

 雪の結晶が砕ければ、まるで世界が入れ替わったように景色は変わり、あの女の人が出てくる。映画のワンシーンみたく。何時、何処の光景で何を話しているのか、自分が一体何を見せられているのかわかっていないが、幻影が本物になるその発明に悠太は震えた。
 祖父が隠していたこの雪の結晶にこんな秘密が隠されていたなんて。きっと祖父を変わり者と呼んだ人々も驚き、悠太のように感動と興奮に震えるに違いない。


「…………」


 けれども、それを他人にひけらかす気は一つも起らなかった。残った三枚の雪の結晶を、他の誰かの手に渡すその絵が思い浮かばない。かといって、再び本棚の奥へと隠してしまうつもりもない。
 薄い茶金の雪の結晶を手に取った。六角形の形をした雪の結晶。手に持ってもとけず、ひんやりと冷たいままそこにあり続ける。
 その中には、自分の知らない景色と、あの女の人がいる。
 熱では決してとけない雪の結晶から、そのひとを解き放つのには、壊すしかない。大発明といくら褒めようが、形として残ることはなくなってしまう。
 それでも会いたかった。
 悠太は薄い茶金の雪の結晶を、指先で簡単に割った。
 途端に、辺りに土の匂いが漂ってきた。

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