木の葉が舞う。
本の壁とノートの海に沈んだ小さな書斎は、枯葉が積もった公園に変わっていた。
全てが枯葉色に染まり、今度は映像よりもセピア調の絵を見ているようだと思いながら、遊具も砂場も落ち葉に埋まっていく景色を見渡すと、あの女の人は少し離れた並木道にいた。
――――その女の人は泣いていた。
並木道の真ん中に一人顔を伏せ、手で覆った隙間から、涙が落ちていく。
けれども、声は聞こえてこない。
涙を流しながら何かを言っているのは伝わるのだが、声は聞こえてこない。
悠太は動揺した。
結晶の割り方がまずかったのか。それとも、最初から壊れてしまっていたのか。
何故その女の人が泣いているのかわからなく、ただ見ているしかできないことができず。どうすればいいのかと考えれば、悠太は初めてこの女の人に声をかけようと思った。
幻影だとわかっていても、どうか彼女に泣いてほしくなかったから。
「あ、あの――!」
『泣くな』
その悠太の言葉を遮る声が現れた。
あの女のひとの透き通るような高い声ではない。この落ち着いた木の葉の景色を低く震わせるような男の声だった。
女の人は、悠太の声ではなく、その男の声に顔を顔を上げたようだった。
女の人はまっすぐに悠太のほうを見る。赤く腫れた瞼と頬を見たとたん、ドキリとする。
そして突然と聞こえてきた男の声も、やはり自分がいるほうから聞こえてきた。
『何故お前が泣く。お前が泣いてどうする。泣くな、考えてみろ、お前の名は何だ?』
悠太がいくら辺りを見回そうが、ここには悠太とあの女の人しかいない。しかし男の声はハッキリと聞こえてくる。女の人は、悠太を見つめてくる。
『お前が泣いては、日々が涙で染まってしまいそうだ。だから泣くな。私の為に泣くな。笑っていてくれたほうがいい――――なあ、日和……?』
そして、木枯らしに散るように幻影は歪んで消え、元の書斎が姿を現した。
シン……と静かな中、外の空気を取り入れようと開け放たれた窓から、蝉の声が聞こえてくる。
しかし、部屋の真ん中で立ち尽くす悠太の耳に残ったのは、最後に聞こえてきた男の声だった。
姿も現さないその男が呼んだ、あの女の人の名が、悠太に重大な事実を再度思い出させていた。
既に三枚を壊してしまった雪の結晶。
見知らぬ景色と、女のひとを閉じ込めたそれを作ったのは――誰だ……?。
「――――――っ」
悠太は急に目覚めたように目を見開くと、箱の中に残った二枚の雪の結晶を手に持ち書斎を飛び出した。
けれど、たったそれだけの動作で、身体は手に余計な力を与えてしまう。
白い雪の結晶に、小さな亀裂が冷たい音を立てて入った……。
***
――――――。
――――――――。
「……何故、雪が降ると辺りはシンと静かになってしまうのでしょう」
「それは雪の結晶の形が特別だからだ。あの美しい形にある小さな隙間が、音を吸収してしまうんだ。今こうしてお前と話している私の声も、降る雪に奪われている」
「……吸収された音は何処へ行くんでしょうね」
「…………?」
「だってそうでしょう? 声や音が吸収されて閉じ込められてしまうのなら、それが解き放たれるのは何時なんでしょうねえ。とけて散った時に、鮮やかによみがえれば、それはきっと写真よりも素晴らしい思い出の振り返りになるでしょうに」
「それでは春が喧しすぎてかなわないな」
「…………あなたはひどく意地悪です」
「……? 何故だ?」
「だってそうでしょう? あなたは自分の絵空事を言い訳に、何度も私を誤魔化してきました。なのに私が絵空事を言えば、あなたは私を馬鹿にする。あなたはひどく意地悪です」
「なるほど」
「わかっていただけましたか?」
「ああ。ならば正直に言おう。私は悔しいのだ」
「悔しい?」
「私の絵空事より、お前の絵空事の方がはるかに面白い」
「…………ふふふ」
「笑うな」
「……だって嬉しいのです。より近くあなたの傍に寄り添えようで……ああ、本当に。いまもこの雪がこの時を閉じ込めていてくれているのなら、いつかまたあなたに会えるよう、とけずにいてくれたらいいのに……」
――――――。
――――――――。
***
ドタドタと乱暴に駆ける大きな音が、古い家を震わせる。
旧家ゆえに広く長い廊下を駆ければ、悠太は縁側で花壇に水を上げる祖母の姿を見つけるなり大声で叫んだ。
「ばーちゃん!」
「何だいうるさい孫だね。そんなに大きな足音を立てなくてもお前が家に来ていることくらい覚えているし、声だってちゃんと聞こえているよ。探し物は見つかったのかい?」
祖母は花壇の水まきを続けながら、偏屈な物言いで返した。
悠太は靴下のまま縁側から庭に降りると、祖母のもとへ駆けより、持った二枚の雪の結晶を見せつけた。一枚罅が入ってしまっているが、雪の結晶とわかるそれに、祖母は垂れた瞼を押し上げて目を丸く開く。
「ばあちゃん、これ」
「なんだい、これは。雪……?」
「じいちゃんから、ばあちゃんに。じいちゃんがっ、ばあちゃんに、って……!」
言って、悠太は祖母の手から水まき用のホースを押しのけると、白い雪の結晶を持たせた。
びちゃびちゃと水がシャツにかかったが、構わず悠太は雪の結晶を持たせた祖母の手を自分の両手で包んだ。
「いいから、見ててよ」
怪我をしないよう、そっと力を加えて上げる。雪の結晶は祖母の薄い手の皮を傷つけることなく簡単に砕け、そしてあの幻影を再びよみがえらせた。
いま、祖母の目には悠太がみたあの幻影が映っている。呆けたように虚空を見つめる祖母の瞳が小刻みに振れているのを見て、悠太は確信する。祖母の表情がみるみると若さを取り戻していくのが答えだった。
そして、雪の結晶の幻影を一通り見終えた祖母は、すっと虚空から視線をおろし長い長い溜息をついたのち、ぽつりと一言呟いた。
「あの人はちゃんと覚えていてくれたんだねぇ」
「何が。何を」
「ご覧よ」
最後まで白い雪の結晶の幻影を見ていなかった悠太が訊けば、祖母は形も残り僅かになった結晶をさらに砕く。
結晶に閉じ込められていた幻影が再び蘇り、現れたのは一人の若い男だった。
今までのあの女の人の姿はなく、現れたその男はまっすぐに祖母の方に向かい合っていた。あの姿なき声が聞こえる。
『この一瞬を閉じ込めた雪を再び降らすことは私には出来はしないだろう。すぐにとけて消えてしまうものは仕方が無い。だから、私が雪になろう。私が覚えている全てを雪に変えて、お前のもとに降ってやるのだ』
「……それはつまり、あなたの走馬燈を私に見せるということですか」
幻影に向かって、祖母は問いかけた。
まるで遠い昔を懐かしんで、セリフを思い出すように。
『私の走馬燈にはきっとお前がいる。何時までもきれいなお前がだ。そして私は雪となる。春にはお前を冷やさないよう花とともに。夏は決してとけない姿となって。秋には木枯らしにも飛ばされず。そして冬には気づかれないよう、お前に今この一瞬を届けてやろうじゃないか。
私は雪となってもお前の傍にいたい。
ああ――本当に。
この気持ちはなんというのだろうなあ――』
蝉の声だけが残された中、縁側に二人で座っていると、ぽつりと祖母は悠太に言った。
「……お前の爺さんは、本当に変な人だったよ。そして変なものが好きで、おかしなことばかりしていたね。でも嘘だけは言わなかった。そんな人だったんだよ」
会って見てどうだったかい? と唐突に聞かれて、悠太はふと黙ってしまう。
そして考える。ひと時の間ののち、正直に答える。
「じいちゃんって、キザだったんだな……」
「いい男っていうんだよぉ」
「って」
パシンッと背中を叩かれる。老体の割には力が強い。
祖母は気が強く笑いながら、あと一枚だけ残った透明の雪の結晶を見つめた。
「身体が弱いくせに変な無茶ばかりして。そのくせ、不器用だったんだよ……」
たった一枚だけになってしまった雪の結晶に、悠太は言う。
「ごめん……」
「何がだい?」
「本当はそれ、もっとあったんだけど。みんな割っちゃってて……もうないから」
正直に言うと、祖母はうなだれる悠太の顔を覗き込みながら訊いてきた。
「どんなだったかい? 感想を聞かせて頂戴よ」
「……いや」
「ん?」
「…………ばあちゃんって、美人だったんだなって」
これまた正直に言うと、祖母は目を大きく見開いた。
白髪ばかりになってしまった髪と違い、まだ黒々とした大きな丸い目が悠太を飲み込もうとしているようで。祖母は大きな声で、盛大に笑ったのだった。
「嬉しいことを言ってくれるねえ。良い孫だ。これでも辺りじゃ一番の器量よしと言われたもんだよ」
笑い飛ばせるくらいならいい。
豪快に笑う祖母を見ながら、悠太は未だ自分自身のことが信じられず、うなだれてしまう。
なんだかモヤモヤとした気分が倦怠感のごとく襲ってくる。信じたくは、ない。
ふと、最後に残された雪の結晶には一体、何が秘められているのだろうと思った。祖母はまだ壊すつもりは無いらしく、当然ながら、悠太にも割ることはできない。
たとえ許されたとしても、それは多分、できないだろうけれど。
胸にまだつっかえているこの想いの正体がわからない限り、もうあのひとには会えないのだと思った。
――この気持ちはなんと言うのだろう。
(まだ割れない)
――この気持ちは、なんて言うのでしょう。
(まだまだ割れない)
――この気持ちは、なんていうのですか……?
end...
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