◇◆◇
「……て……きて」
真っ暗な視界。
そのどこかで声がする。
「……ねえ……おきてってば」
その声が徐々に大きくなる度に、僕の意識もハッキリとしてくる。
どうやら僕は寝てしまっていたらしい。
その事に気づくと、暗闇だった視界に僅かに光がさす。
「ねーえ。起きてよ」
ゆさゆさと体が揺さぶられる。
メイだ。彼女が僕を起こそうと必死になっている。
嗚呼、でも。ごめん。僕はやっぱりまだ眠たいんだ。
目も開かないし開きたくない。頭はまだボーっとしていて意識もうろうって感じだし。
「うぅん……」
だから、僕は寝たフリをする。どうか諦めて。
「……起きないとチュウするよ」
飛び起きた。
「えぇと……メイさん?」
何かいま、ものすごいセリフが囁かれた気がする。
「やっと起きた。ちゃんと目ぇ覚まして、ほら」
僕の疑問は置いておかれ、彼女は僕を起こすなり無理やり立たせようとした。
きちんと目を覚まさせようと、僕の頬をペチペチ叩く。
「起きたよ、起きたってば」
「よし」
目を開いて見せると納得したのか、彼女はようやく手を離してくれる。ヒリヒリと痛む頬を撫でて、僕は頭一個分小さい彼女を見た。乱暴な真似をしてまで僕を起こした理由はなんなのだろうか。それを僕が問うより先に、彼女はにっこり笑うと手を上げた。
顔も、手も青く汚れていたが、気にした様子もなく彼女は上を指し示す。
「見て」
そして僕は見た。
彼女が指し示したアトリエの天井……いや、空を。
その瞬間、僕は目を疑い声を失った。
「――――」
僕が見た空。
それは、僕が意識を失う前に見た時とは全く違うものだった。
「――晴れてる」
見たままを僕は呟く。
あんなに暗かったはずなのに。灰色だった空は、見事に晴れていた。
ちょうどあの時彼女が描いていた空と同じ、抜けるような青空がそこにはあった。
「なんで」
「シッ」
僕が寝ている間に一体何が起こったのだろうか。
呆然としていると、彼女は自分の唇に指を当てて示す。
「静かに」
それだけ言うと、彼女もまた空を見上げた。
まだだ。まだきっと何かある。
言われた通り、僕は静かに空を見上げていると、その時はやってきた。
突然現れた青空は、何の変化もなくその姿を見せているだけのように見えたが、何となくその姿に違和感を覚える。
瞬間。
空の一カ所が歪んだ。
グニャンと歪んだかと思えば、まるでそこを通り抜けたように何かが空からやってくる。
……空を突き抜けた?
また一カ所、違う場所でまた一カ所。空が歪み、その度に何かが空から現れる。
魚。そう、魚が空から現れたのだ。
体の色が抜けているような、少し半透明な魚が空からやってきた。一匹、また一匹とその数は増えていき、魚だけではなくいろんな海の生き物たちでいつしか空はいっぱいになってしまった。
それは、この時期だけの風物詩。
自由に空を泳ぎ回っている海の生き物たちに、僕が目を奪われていると。
「……く……くす。ふふっ」
隣にいた彼女の肩が小刻みに揺れている。
「メイ?」
「あはっ。はははっ」
突然、彼女はお腹を抱えて笑い出した。
・・・・・・・・・・・・・
「あははっ。ざまぁみやがれってんだー!」
両手を上げ、彼女は叫ぶ。
明るい笑い声が空を包む。
彼女に何が起きたのか、わからない。
けれど、彼女はとても嬉しそうだった。
「ねえ。どう? 待ち望んだ光景よ。見たかったでしょう?」
海の生き物が優雅に泳ぐ空の下。彼女はくるくる回りながら僕に尋ねる。
「見れないと思ったでしょう。でも、どう? そこにあるわ。私たちだけよ、きっと」
諦めていた光景が蘇ったことに、正直僕は驚いた。
全く予想していなかった。
「うん……すごい」
「すごい? 違うわ」
僕の言葉に満足しなかったのか、彼女は首を振り、空を仰ぎ、精一杯その小さな体を広げて叫ぶのだ。
「なんて、素敵」
世界に自慢するように。
「ああ――幸せ!」
一点の曇りのない、正直なその言葉は空に届き魚たちを驚かしてしまう。
それでも彼女は構わず何度も叫び、自慢げに笑う。
こうなった彼女はもう、誰にも止められない。
――だけど。
そうだね。きっと君のおかげだね。
僕はちゃんと気がついたよ。
君が言った通り確かに世界は思った以上に単純で、間抜けなんだ。
半分だけね。だって、頭のいいイルカや体の大きなクジラはいないもの。この空は小さすぎるって気づいているから。
だけど僕は決して言わない。言ったって無駄だって知っているから。
上を見上げれば、そこはもう海の中。
泳ぎ回っていた魚たちは次第に姿を消していってしまう。
みんな騙されたことに気が付いたのか、それとも行くべき場所があるからなのかは僕にはわからない。入れ替わりにまた魚たちが現れるが、いつしかまた、なんの変化もなさないただの青空だけが残されるのだろう。
でもきっと彼女は悲しまない。
彼女が欲しいのはたった一瞬の奇跡だけ。描いた夢物語のその一瞬だけ。
叶ってしまい、ただの現実になってしまった出来事に興味はないのだ。
そうして彼女はまた現実を踏み台に奇跡を追い求め、夢物語に溺れてしまうのだろう。
それが彼女なのだから。
彼女なら、いつか本当にペン一つで空を飛んでしまうのかもしれない。
その時も僕は彼女と一緒にいるのだろうか。置いてけぼりになってしまわないだろうか。
彼女を振り向かせることが出来るだろうか。
その鍵はきっとここにある。僕の手に握られた鉛筆。広げられたノート。これで僕は、彼女以上の夢物語を紡いでみせる。それが僕の夢。
でも彼女は気づいてくれるかどうか。だって彼女もまた、この単純で間抜けな世界の住民なのだから。
海を見上げれば、どこか遠くで水の弾ける音がする。
ガラスが、叩かれている。
魚たちが現れ、消えていく空。
その片隅には、彼女の好きな赤色のクレヨンの跡。
小さくサインが刻まれていることに、
彼女はきっと気づいていない。
fin.
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