誰が運転しているのかもわからない。私と車掌さんの他に誰もいないバスの中。
 横に広いシートに車掌さんと並んで座りながら、私は季節の変わり目にふさわしい、怪しく奇妙なヒトとの出会いを思い出していた。

「車掌さん、これって春風なんだってさ。私ね、春風の押し売りにあったんだ」

 薄紅色の花びらが二枚、私の指先にくっついて離れない。

「どんな贈り物も、何処へでも届けてくれる春風なんだって。届けられないものなんてないんだって。さっきから指先ばっかり風に吹かれてるみたいでくすぐったくてね、怪しさ満載だよ」

 車掌さんは興味深そうに真っ白なひげを鼻先に寄せながら、私の指先に近づく。
 なんだか春風を食べられてしまいそうな気がして、さっとよけると、私は窓の景色に目を向けた。
 バスは真昼の町中を走っている。
 ゆるゆると景色が流れていく。
 知っているはずなのに、知らない光景。


 道路、家並み、狭い他人の家の庭を突っ切って。
 学校の広い校庭に出れば、商店街の真ん中まで通り抜ける。

 不意に、濁った白の建物がバスの進路の向こう側に見えたのに、私の胸が苦しんだ。

 
「……本当に、なんでも届けられるのかな?」

 つまる息で呟いた言葉に、車掌さんが丸い顔を上げて私を見た。
 うまく呼吸できない私の代わりに、春風の花びらが息をするかのように、指先が増々くすぐったくなる。

「車掌さん……私ね、ずっとあそこで眠ってたんだ」

 近づいていく――市民病院と書かれた看板。

「頑張ってっていろんな人に励まされて。同じ数だけお花も、起きたら食べようねってお菓子も、人形も貰って。もうそんな歳じゃないのにね……。でも、沢山もらったの。食べれなくても、人形で遊べなくても、私は特別なものを沢山貰ったの。……それでも嬉しかったなぁ」

 指先がくすぐったい。
 そこから感覚が広がって、身体中がそわそわする。

「……私は結局、起きれなかった。けど、いまのこれは夢じゃないってわかってる。ねえ? 車掌さん……私もお返し届けられると思う?」

 尋ねれば、車掌さんは短く鳴いて返事をした。
 それに私は気がよくなって、頷き返した。
 違う。もしかしたら季節の変わり目のせいで、気がおかしくなっただけかもしれないけど。


 私は窓辺に寄りかかると、走り続けるバスの窓を力いっぱい上に押し上げた。
 少しずつ開く窓から、バスの車体が切った風が吹き込んで重たくなるけど。それでも全開になるまで押し上げて、私は上半身を開いた隙間にねじ込んだ。
 外の景色が近くなる。
 いつぶりだろう。窓の外がこんなに明るいと感じるのは。
 けれど感動している場合ではない。
 近づいている。
 市民病院の看板の前を通り過ぎるタイミングを計りながら、私は建物の壁に並ぶ窓の一つに狙いをすませて手を伸ばした。

 ――春風一枚目。

 指先からはがれた花びらから、小さな台風のような風が巻き起こる。
 それをひと息のみこめば、風の勢いは私の身体の中で大きく広がった。
 嵐のような風の勢いは、私の想いを身体中からかき集めて吹き荒ぶ。
 止まらない勢いはもう吐息などではない。

 吐き出した。

   、、、
「――好きよ」

 届け。
 届け――届け!

「――好きよ、好き。だあい、好き!」

 届け!!

「ありがとう――」

 本当なら、届くはずが無い。
 バスの大きな車体が混ぜた風の勢いに負けて、私の細い声などかき消されてしまうはずなのに。

 
「――――……」

 市民病院の前を通り過ぎる頃に、病室の窓が一つだけ開いた。
 知っている、胸が苦しくなるほどに懐かしい部屋だった。
 そこから誰かがこちらを見たような気がした。
 小さな窓から乗り出す人影が見えたと思えば、もう私のほうが離れすぎていて、病院はバスの影の向こう側。何も見えなくなった。
 そして私はズルズルと上半身をバスの中にしまい込んで、

「……く、くふ。ふっふふ、あはは」

 窓枠にしがみついたまま笑った。
 指先はまだくすぐったい。
 車掌さんが気にしたように私の指先に鼻を近づけてくる。
 私は、まだ残った春風の花びらを見た。


 一枚目の春風は嵐を呼ぶ。その勢いは贈り物を、どこまでもどこへでも届けてくれる。
 二枚目の春風は、私の背中をそっと後押しをしてくれる。
 あの春風うりの言葉を思い出すと、私は二枚目の花びらを迷うことなく指先ごと食べた。
 車掌さんが残念そうに一声鳴く。

「ジャムにするまでもない味」

 私は一言感想を述べて、椅子に深く腰かけるように座りなおした。

「車掌さん。私ね、決めた。次の行き先。先に進む覚悟ができたみたい」


 私の横顔を車掌さんはじっと見つめてくる。
 どんなふうに見えているだろう。
 けれど私は、自分自身がまっすぐ前を見つめられている気がした。

「春風をはじめてみるのも、いいかもしれないわ」

 春風が私をそうさせるかのように。
 私の背中を押しているかのように。
 閉め忘れたバスの窓から、吹き荒ぶ春風――春一番が舞い込んだ。
 私の春風だろう。風に乗って、さっきの自分の声が聞こえたのだ。
 きっと春が来るたびに、何度もあそこに届けてくれるのだろう。

 それなら、スキップとジャンプをいっぺんにするような考えだと言われても、季節の変わり目のせいにされてもいい。
 『ああ、春だからねぇ』の春一番になれるのなら。
 今度は春風をはじめてみるのもいいかもしれない。


END



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